「……確かに愛していないものを、求めることはないね」
斎藤は笑った。の古布でつくった手提げから、小銭入れを取り出した。
「切符を買ってきますね」
ひゐろが駅員に小銭を払い、市電の切符を買っている最中のこと。
側にいた斎藤がおもむろに振り返り、ひゐろに言った。
「悪いが、先に日本橋へ行ってくれ。橋のたもとで待ち合わせをしよう」
「……えっ?どうして?」
「とりあえず、何も聞かないでおくれ、すぐに、あの市電に乗って欲しい」
斎藤はひゐろの手を引いて、送り出した。
ひゐろは斎藤の言動の意味が理解できなかったものの、とりあえず市電に乗って日本橋に向かうことにした。
吾妻橋を走ると、市電の窓ガラスが白く曇った。gaapiacct.pixnet.net
それでも、隅田川が夕陽で赤く染まっているのはわかった。
今日も一日が暮れていくんだなと、ひゐろは思った。
日本橋に着くと、日本橋にはたくさんの人が露店を開く準備にかかっていた。
開店はしていないものの、ほうとうのだし汁や焼きイカの匂いが漂ってくる。
すでに古書や骨董品の露店は、販売をしているようであった。
絵葉書の露店もいくつか並んでいたが、いずれも書生のようだった。
そこには俳優の絵葉書を買う女学生の姿も、見受けられた。
ひゐろは賑わいはじめた日本橋のたもとで、斎藤を待つことにした。ところが三十分を過ぎても、斎藤は一向にやってこなかった。
一方斎藤は、本所吾妻橋駅からインバネスコートを着た男の視線を感じていた。それは、下宿にいた頃から尾行されていた男のようにも感じていたが、違う男のようにも感じられた。
斎藤のいる場所から十七尺ほど離れていたが、斎藤が男の姿に目をやるたびに男はうつむいた。
堺利彦氏の講演のチラシを作成した印刷会社から、僕の身元が割れたのだろうか。それとも、講演先で受け取った客からの情報だろうか。いや、東京帝国大学の仲間や下宿先だろうか。
今更振り返ってみてもどうにもならないことだが、こうして警察に追われていることは紛れもない事実だ。
斎藤は、本所吾妻橋駅から市電に乗った。
インバネスコートを着た男もうつむいたまま、市電に乗ってきた。斎藤は男に気付かぬふりをして、車中から景色を見ていた。
ひゐろはすでに日本橋に着いただろうか、と思いながら。
吾妻橋線の終点である上野駅前で斎藤は一旦電車を降り、後ろを振り返った。すると男も、斎藤の後を着いてきた。
斎藤は走って上野駅に行き、山手線に乗り込んで新橋まで向かうことにした。
ところがその間に、男の姿が見えなくなってしまった。くことができたのかもしれないと斎藤は思った。
ほっとして山手線の座席に座り、斎藤はゆっくりと目を閉じた。
すると正面から、
「……斎藤さんですか」
という声がした。斎藤が目を開けると、そこには坂田花代と二人の息子が立っていた。
「……花代さんか。驚かさないでくれ」
斎藤は、胸をで下ろした。
「別に驚かせるつもりはないわよ。こんなところで会うなんて、奇遇ね」
花代は二人の子どもを、斎藤の隣に座らせた。
「上野で何か用事でもあったのかい?」
「子どもたちが動物を見たいというので、に連れて行ったのよ。二人とも動物たちを目の前にして、興奮していたわ。ただ、今はファンジとグレーの二匹のキリンもいないから残念ね。この子たちはまだ、キリンを見たことがないのよ」
「僕もまだ、キリンは見たことがない。君たちと同じだよ」
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