「あの、沖田先生。話したいことがあります。今夜、お時間頂けませんか」
「……分かりました」
沖田の返事を聞くと、安全期 桜司郎はホッとしたように息を吐き、頭を下げる。そして大広間へ向かっていった。 冷えた外気が頭上の星々をより美しく映えさせる。もう冬の訪れを感じさせるような夜だった。西本願寺の本堂からは坊主たちによる の声が聞こえる。それらを何処か遠くに聞きながら、沖田と桜司郎は肩を並べて空を見上げていた。
やがて空気を吸い込む音と共に、桜司郎が口を開く。
「私も……訊問使へ同行することになりました」
沖田はそれを聞いた瞬間、ちりっと胸の奥が痛むのを感じた。納得している筈だが、行きたかったという思いが浮かんでくる。
「永井様の件があったから、ですか?」
「ええ、恐らくは」
沖田は横目で桜司郎を見る。困ったように眉が下がっていた。
「昌平黌……と言っていましたね。心当たりはありますか?」
「あります。……ですが、あれは私じゃない」
心当たりがあるというのに、自分ではないというのはどういうことなのだろうと沖田は眉を顰める。煙に巻かれたような気持ちになった。
だが、それを不快とは思わない。むしろ不憫だとさえ感じた。何故、この人ばかり数奇な運命に振り回されているのだろうかと。
「本当です。……本当なんです。わたし、じゃない」
まるで自分に言い聞かせるように、桜司郎は言葉を絞り出した。そうでもしないと、自分を保っていられないと言わんばかりに。
「……可笑しいですよね。失くした記憶を辿ろうとすればする程、自分が分からなくなっていくんです。会う人会う人が私を別人のように扱うんです。私は、一体何なのでしょうか」
そう言うと、桜司郎は俯いた。その表情は分からないが、何かに傷付いているということだけは分かる。
沖田は手のひらを上にすると、桜司郎の前にそっと差し出した。
「……手を、触っても良いですか」
突然のその申し出に、桜司郎は目を軽く見開く。そして惑うように視界を彷徨わせると、それに自身の手を重ねた。
ひんやりとした沖田の手に、温もりがじわじわと伝わる。その心地良さに目を細めた。
──やはり、この人の手は不快ではない。
「貴女は貴女ですよ。貴女が何を思い出そうと、何者だろうと、それは取るに足らない些事です。目の前にいる貴女が真実ですから。……それでは駄目でしょうか」
沖田の言葉は、この空のように冷たくなった心に温かく染み入る。
「……駄目では、ないです」
桜司郎は顔を少しだけ歪めると、沖田の目を見た。沖田先生、と呼び掛ける。
「何があっても、お傍に居させてくれますか」
人を斬った時の、血が煮え滾るような感覚。自我を失い深い闇に飲み込まれていくような恐怖。あれが続けば正気を保つことはできないだろう。そして記憶を取り戻した先に明るい未来があるとも限らない。
まるで心中が分からない問い掛けだが、沖田は迷わずに頷いた。
「ええ。貴女は私の大事な弟分ですよ。名を分けたくらいですから」
「……有難うございます。弱音を吐いてしまうなんて、情けないですよね。名に恥じぬ働きをしてきます。身命を賭してでも、近藤局長をお守りしますから」
「よろしくお願いします。よくお守りして下さい」
桜司郎はその言葉に、柔らかく笑う。沖田は守れと言っておきながら、少しだけそれを後悔した。その性格的に本当に命を落としてでも前に出ようとしかねない。だが、組長という立場がある以上は、そのように言うしか無かった。
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