濃姫のその返答が、報春院の顔から一瞬にして笑顔を奪い取った。
「……何じゃと」
「せっかくの義母上様のお頼みなれど、その仰せには従えませぬ。ご家督は、ご嫡男である信長様が継がれるのが筋でございます」
臆する事なく、濃姫ははっきりと自らの意思を告げた。
きっと少し前の自分であったら、姑との関係に亀裂が入るのを気にして、どっちつかずの曖昧な返答をしていた事だろう。
だが、今は前とは違う。
信長がうつけではないと見抜き、彼の考えや行動、その真意に触れ、
実家をも捨てる覚悟で、唯一無二の味方になると誓ったのだ。植髮
今の濃姫には、信長への慕情も含めて、彼を庇い立てるだけの十分な理由があった。
「お濃殿は…、あのうつけ者のせいで、この織田家がどうなっても構わぬと申されるのですか !?」
「ご安堵召されませ。殿によって織田家が栄える事はあっても、滅びるなどという事は間違ってもありませぬ」
「何故左様な事がそなた様に分かるのです !?」
「分かりまする。私はこの目で、殿の真実を見ました故」
「真実…?」
「義母上様。どうか殿のなさる事に惑わされずに、正しき目であの方を見て差し上げて下さいませ。
そうすれば義母上様にも、真実が見えて来るはずでございます」
濃姫の汚れのない、純粋で真っ直ぐな瞳が報春院の困惑顔を捕らえた。
「…いったい、信長殿の何が見えて来ると申されるのです。あの子は──」
「殿はうつけではありませぬ」
「 ? 」
「寧ろ、国を治める才能においては、信勝殿よりも殿の方が優れているやもしれませぬ」
濃姫は万感の思いを込めてそう告げた。
報春院は「は…?」という表情を浮かべるや否や、堰を切ったように笑い出した。
「お濃殿、いきなり何を申されるかと思えば。信長殿がうつけ者であるという事は、
織田家の誰も…いいえ、民百姓ですら知っている公然の事実ではありませぬか」
「確かに。殿がなさる事は何もかもが奇抜過ぎて、傍目からは単なるうつけの所業にしか見えませぬ。
されど、もしもそこに、何か意味があるとしたら?
周りを欺(あざむ)くために、あえて左様な真似をしているのだとしたら、如何です?」
「…まさか……わざとだと申されるのか !?」
濃姫は無言をもってそれを肯定した。
「そんな、馬鹿なっ」
報春院にはとても信じられない話だった。
大名家の嫡男は傅役と乳母が育てるのが慣例であるため、昔から母と子の直接的な触れ合いは殆んどなかったが、
それでも時折訪れる対面の席で、報春院は幾度となく信長とは顔を合わせて来た。
しかし、彼が信勝よりも優れていると思わされた事など、一度としてなかった。
信長は幼い頃から悪戯好きで、勉学なども度々サボっては外に遊びに出掛ける事が多く、既にこの頃から家臣たちの手を焼かせる存在であった。
そんな信長が、周りを欺くためにうつけの仮面を被り続け、己の才を隠していたとは──…
「嘘じゃ、有り得ぬ!話をはぐらかそうとして、出鱈目(でたらめ)を申しているのであろう!」
一瞬湧いた疑惑を払拭するかのように、報春院はややムキになって叫んだ。
「嘘でも出鱈目でもありませぬ。曇りのない目で殿を見て差し上げれば、自ずと分かる事にございます」
「お濃殿…!」
「本来ならばこのような事は、自身の目で確かめる事に意味があるもの故、安易にお教えすべき事ではないのかもしれませぬ…。
されど報春院様は、殿の実のお母上であらせられます。大殿様亡き後、もはや殿が親御と呼べるのは、報春院様たったお一人」
「──」