2023年04月
小柄でぱっちりと
小柄でぱっちりとした目元が愛らしく、時々抜けたところもある。それでいて三味線の名手というものだから、高杉が惹かれた理由も分かると桜司郎は思った。
「毎日の事やけど、これは痛いっちゃろう。やのに、お可哀想やなぁ」
衣類に付かないように、患部に清潔な布を当ててその上から晒しを巻き付ける。まだか、と言う焦れた声が襖の向こうから聞こえた。
「旦那様、もうええっちゃ」
おうのが声を掛けると、避孕 高杉が部屋へ入ってくる。待たされるのが嫌いなのか、何処かぶすくれていた。
「桜花。体調はどうじゃ」
「お陰様で。傷は痛みますが、良くなっている気がします」
ほうか、と頷きながら高杉は桜司郎の前へ座る。
「ところで桜花。君の鎖骨の下……、胸に黒い紋があるんじゃが。あれは何じゃ。二年前は無かったじゃろう?」
その問い掛けに桜司郎は目を丸くした。何て答えれば良いのか分からなかったことと、そもそも何故それを知っているのかという疑問が浮かぶ。
が大きくなっていく。「恋仲……?そんな人、私には……」
桜司郎は瞳を揺らしながら、口篭った。その言葉を聞いた高杉は眉を顰める。
「桜花。まさか、栄太のことまで忘れてしもうた訳じゃないじゃろうな」
咎めるようなその視線に桜司郎は視線を畳へ移した。少なくとも、藤や高杉と出会ってからの記憶は殆ど鮮明に残っている。まるで"作為的に切り取られたかのようなある期間"を除いては。
となれば、切り取られた記憶は"吉田栄太郎"という人物に関連したものなのだろうかと思った。
「高杉様。御実家から遣いが来ちょります」
そこへ戸の奥から声が掛かる。高杉は深い溜め息を吐く。
「僕が此処におることを聞き付けたんじゃな。一度は挨拶に行かんと後が面倒か……。志真、羽織を持って来い」
そう言いながら立ち上がった。戸が開き、志真と呼ばれた男が上等な羽織を片手に入ってくる。桜司郎は志真を見るなり、目を見開いた。
「白岩さん……」
「これは。ご無事で何より」
志真は機械的な会釈をすると、高杉へ羽織を着させる。
「志真。桜花に大怪我を負わせたことを詫びておくんじゃ。そうじゃ……僕が居らん間、志真に萩を案内して貰うとええ。頼んだぞ」
それだけ一方的に言い残すと、高杉はさっさと出掛けて行く。
気まずい空気が流れる中、先に言葉を掛けたのは桜司郎だった。
「貴方は……白岩さんじゃなくて、志真さんなのですね」
「はい。白岩ちゅうのは壬生狼へ潜伏するための偽名でしたけえ。本当は志真与三郎と云います」
切れ長の目が桜司郎を捉える。桜司郎は思わず目を逸らした。
長い沈黙が部屋に流れる。今度は志真が口を開いた。
「……海、見たことありますか」
「海……?」
「京におるんじゃったら、海は見たことないじゃろうと思うて。萩の菊ヶ浜は綺麗ですけえ。行きたいなら、案内します」
江戸へ向かう途中で遠くに海というものがあると聞いたことはあった。ただ、近くでは見たことがない。
桜司郎は小さく頷いた。それを見た志真は何処からか羽織を持ってきては桜司郎へ着せる。おうのへ声を掛けると、桜司郎は志真と共に村塾を出た。
久々の外の空気はひやりと澄んでいて心地良い。城下町を通り、無言で歩く志真の背を追えば、やがて波の音が聞こえてきた。
勿論、"元の世界"に居た頃は海に何度も来ている。だが記憶が無い今は目の前に広がる一面の青が新鮮で仕方がなかった。
「これが……海」
冬の海に好んで近寄る者はおらず、浜辺に二人きりである。潮風が頬を撫で、
国泰寺へ向か
国泰寺へ向かう林道はこの三人以外に誰もおらず、ただ風の泣く声だけが響いていた。背の高い木々には雪が積もり、突風が吹けば落ちそうである。
「近藤局長。致し方ありませんよ。そもそもが駄目で元々だったではありませんか。また策を練りましょう」
「う、うむぅ……。そうだな……」
伊東に慰められつつ、避孕藥 近藤は歩みを進めた。いつもであれば、近藤は直ぐに気持ちを切り替えられる。だが、今回ばかりは引き摺っていた。何故なら此度の訊問使同行に命を賭け、地元には遺書すら送っている。土方や沖田の反対をも振り切って来ただけに、何の成果も上げられずに帰るのは屈辱でしか無かった。
池田屋事件以来、これといった目覚ましい活躍もなく市中見回りと不逞浪士の取り締まりだけに精を出すしかない日々に焦りを感じていた。長州へ立ち入り、何らかの情報を引き出すことが出来れば、もっと新撰組の名を上げることが出来るのではないかと期待していただけに落胆も強い。
「鈴木君、どうしましたか」
背中で聞いていた雪を踏む音が消えたため、伊東は足を止めて振り返った。桜司郎は真剣な顔付きで視線を彷徨わせ、辺りを伺っている。伊東もそれに倣うが、まるで何も分からなかった。
「……においませんか」
桜司郎はそう言うと、鼻を動かす。歩いていた時にふと冬の空気の匂いに混じって、変なそれが鼻腔を掠めたのである。普段であれば気に留めないのだが、それには覚えがあった。
──これは。
壬生寺での銃の調練を遠目から見ていた時に、嗅いだ記憶が蘇った。間違いなくそれが硝煙のものだと気付き、視線を動かすが木々に囲まれた道であるため分かりづらい。
目を瞑り、耳を澄ませば風の音が滞る場所が左右合わせて二箇所ほどあった。間違いなく誰かが潜んでいると確信を得る。
その時だった。突然背後から雪を激しく踏む音が近付いてくる。桜司郎は振り向きざまに抜刀した。キン、と金属音が辺りに鳴り響く。気付くのが遅れれば今頃地に伏していただろう。目の前には狐の面を付けた男が立っていた。
「鈴木君!」
「大丈夫ですッ。局長は新手に注意して下さいッ」
迫る刀を受け流せば、男は飛び退いて間合いを取る。男の斬撃は重く、刀を持つ腕がジンと痺れた。かなりの使い手だということが一太刀で分かる。
休む間もなく、男は何度も斬撃を繰り出し、桜司郎はそれを受け流した。まともに刃をぶつからせれば間違いなく折れてしまう。そうすれば護衛など出来ない。
近藤や伊東のところにも刺客が一人襲った。だがあまりにも重く容赦ない攻撃に、桜司郎の心の余裕は消えていく。あれほど気になっていた硝煙の臭いなど頭から消し飛んでいた。
男は巧みに桜司郎を近藤らから引き離すように、刃で誘導していく。一瞬でも近藤らの方を向く余裕など無かった。伊東は北辰一刀流の免許皆伝、近藤も天然理心流の当主であり相当な手練だという気持ちが慢心を呼んだのかも知れない。
パン、と耳を くようなが響いた。
「銃です!」
伊東の焦燥した声が響く。最初の一発目は誰にも当たらなかった。まるで弄ぶように、わざと外したのかもしれない。
「……次は確実に近藤の腹をぶち抜くけぇ」
桜司郎と刃を交えていた男は初めて声を発した。その声には聞き覚えがあり、桜司郎は顔を歪める。
「しらいわ、さん……」
「よう覚えちょってくれましたね。さあ、どねえします?私に背を向けて近藤の元へ行くか、近藤を見捨てて私を斬るか」
白岩は刀を構えたまま、選択肢を桜司郎へ与えた。つまり、背を向ければ斬られる。戦えば近藤が死ぬ。その二択だった。
「あの、沖田先生
「あの、沖田先生。話したいことがあります。今夜、お時間頂けませんか」
「……分かりました」
沖田の返事を聞くと、安全期 桜司郎はホッとしたように息を吐き、頭を下げる。そして大広間へ向かっていった。 冷えた外気が頭上の星々をより美しく映えさせる。もう冬の訪れを感じさせるような夜だった。西本願寺の本堂からは坊主たちによる の声が聞こえる。それらを何処か遠くに聞きながら、沖田と桜司郎は肩を並べて空を見上げていた。
やがて空気を吸い込む音と共に、桜司郎が口を開く。
「私も……訊問使へ同行することになりました」
沖田はそれを聞いた瞬間、ちりっと胸の奥が痛むのを感じた。納得している筈だが、行きたかったという思いが浮かんでくる。
「永井様の件があったから、ですか?」
「ええ、恐らくは」
沖田は横目で桜司郎を見る。困ったように眉が下がっていた。
「昌平黌……と言っていましたね。心当たりはありますか?」
「あります。……ですが、あれは私じゃない」
心当たりがあるというのに、自分ではないというのはどういうことなのだろうと沖田は眉を顰める。煙に巻かれたような気持ちになった。
だが、それを不快とは思わない。むしろ不憫だとさえ感じた。何故、この人ばかり数奇な運命に振り回されているのだろうかと。
「本当です。……本当なんです。わたし、じゃない」
まるで自分に言い聞かせるように、桜司郎は言葉を絞り出した。そうでもしないと、自分を保っていられないと言わんばかりに。
「……可笑しいですよね。失くした記憶を辿ろうとすればする程、自分が分からなくなっていくんです。会う人会う人が私を別人のように扱うんです。私は、一体何なのでしょうか」
そう言うと、桜司郎は俯いた。その表情は分からないが、何かに傷付いているということだけは分かる。
沖田は手のひらを上にすると、桜司郎の前にそっと差し出した。
「……手を、触っても良いですか」
突然のその申し出に、桜司郎は目を軽く見開く。そして惑うように視界を彷徨わせると、それに自身の手を重ねた。
ひんやりとした沖田の手に、温もりがじわじわと伝わる。その心地良さに目を細めた。
──やはり、この人の手は不快ではない。
「貴女は貴女ですよ。貴女が何を思い出そうと、何者だろうと、それは取るに足らない些事です。目の前にいる貴女が真実ですから。……それでは駄目でしょうか」
沖田の言葉は、この空のように冷たくなった心に温かく染み入る。
「……駄目では、ないです」
桜司郎は顔を少しだけ歪めると、沖田の目を見た。沖田先生、と呼び掛ける。
「何があっても、お傍に居させてくれますか」
人を斬った時の、血が煮え滾るような感覚。自我を失い深い闇に飲み込まれていくような恐怖。あれが続けば正気を保つことはできないだろう。そして記憶を取り戻した先に明るい未来があるとも限らない。
まるで心中が分からない問い掛けだが、沖田は迷わずに頷いた。
「ええ。貴女は私の大事な弟分ですよ。名を分けたくらいですから」
「……有難うございます。弱音を吐いてしまうなんて、情けないですよね。名に恥じぬ働きをしてきます。身命を賭してでも、近藤局長をお守りしますから」
「よろしくお願いします。よくお守りして下さい」
桜司郎はその言葉に、柔らかく笑う。沖田は守れと言っておきながら、少しだけそれを後悔した。その性格的に本当に命を落としてでも前に出ようとしかねない。だが、組長という立場がある以上は、そのように言うしか無かった。