2021年08月

恋愛対象が女性なんて、おかしい。

最初はそう思っていたはずなのに、依織に会う度に、そんな気持ちが薄れていくのを感じていた。

 

 

真面目なのに、どこか抜けている性格。

争い事が嫌いで、実はかなりの小心者。

それなのに、いざというときは、周囲の反応など無視して必ず私の味方になってくれた。

 

 

二年生の秋。

私は、別の学科の女子に突然言いがかりをつけられた。

その子の彼氏が、期指 私のことを可愛いと褒め、付き合うなら私のような子が良かったと言っていたらしい。

 

 

その子はなぜか、怒りの矛先を私に向けた。

私はその子の彼氏とは挨拶程度しか交わしたことがないのに、人の彼氏を誘惑するなと責めてきたのだ。

 

 

そんなとき、真っ先に私を助けてくれたのは依織だった。

依織はその子に正論をぶつけ、私の前に立ちはだかってくれたのだ。

 

 

人見知りだけれど、親しくなった人にだけ心を開いてくれる。

『ありがとう』と『ごめんね』を、素直に言える人。

 

 

依織の笑顔を見る度に、私の胸はざわついていた。

 

 

二年生の冬、私は依織と二人で温泉旅行に行った。

その頃、依織は付き合っていた年上の男と別れたばかりで、傷心旅行と称して私が彼女を誘ったのだ。別れた原因は、性格の不一致だったらしい。

 

 

「食の好みも全然合わないし、一緒にバラエティーとか見てても笑うところが違うの。それに、マンガが好きだって言ったら、思いっきりバカにされたり。小説とかビジネスの本を読む人だったから、マンガは論外だったみたい」

 

 

「そんな男と別れて良かったじゃん。一緒にいたって、息が詰まるでしょ」

 

 

……多分、向こうも私といて苦しかったと思う」

 

 

ニセコの温泉に浸かりながら、依織を慰めるフリをする。

本当は、慰めるために連れてきたわけではない。

ただ、依織を独り占めしたかっただけ。

そして、自分の本当の気持ちを確かめたかったのだ。

 

 

これは、錯覚の恋なのか、それとも本物の恋なのか。

 

 

でもそんなこと、当然依織に知られるわけにはいかなかった。

 

 

「そういえば、蘭ってずっと彼氏いないけど……いいなって思う人とかいないの?」

 

 

……私、理想高いから」

 

 

「そっか。でも私、蘭みたいな人が理想かも」

 

 

「え……

 

 

「一緒にいて凄く楽だし、話してて楽しいし。蘭が男だったら、彼氏にしたいって本気で思うもん」

 

 

何気なく放たれた依織の言葉は、私の胸を深くえぐった。

その瞬間、確信してしまったのだ。

私は依織に、本気の恋をしていると。元々、同性愛に対しての偏見はそこまでない方だと思う。

ただ、まさか自分が当事者になるとは思っていなかっただけだ。

 

 

依織に恋をしていると自覚した瞬間、私は意外にも自分の気持ちをすんなりと受け入れることが出来た。

 

 

……ねぇ、依織。前にさ、私が高嶋さんの彼氏を誘惑したって責められたことあったじゃない?あのとき、どうして私の味方してくれたの?」

 

 

「え?」

 

 

「私はそんなことやってないって言ったけど、本当は私が嘘ついたかもしれないよ。私が、人の彼氏を奪おうとしてたかもって思わなかったの?」

 

 

そう聞くと、依織はアハハ……と笑い飛ばした。

 

 

「蘭がそんなことするわけないじゃない。それに蘭、あの子の彼氏に少しも興味なかったでしょ?」

 

 

「確かに、興味は全くなかったけど……

 

 

「蘭は意外とわかりやすいから。蘭が誰かを好きになったら、私すぐにわかる自信あるもん」

 

 

……

 

 

私が想いを寄せているなんて、依織は全く気付いていない。

今こうして裸で一緒に温泉に入っていることに、私が胸を高鳴らせていることなんて、依織は知る由もないだろう。

 

 

それでいいと思ったけれど、どこか言いようのない虚しさも感じてしまった。私は依織に自分の気持ちを伝えるようなことはしないと決めた。

この気持ちを受け入れてもらえるはずがない。

それどころか、築いた友情さえ壊れてしまう可能性がある。

 

 

依織との関係が途切れてしまうことだけは、絶対に避けたかった。

 

 

その後、依織は専門学校の卒業を間近に控えた頃、二つ年下でプログラミング学科の桐生遥希に告白された。

 

 

依織は告白されるまで彼のことを全く知らなかったようだけれど、私は彼の存在を知っていた。

 

 

彼が入学してきたとき、私と同じクラスの女子が、カッコいい子が入学してきたと騒いでいたからだ。

でも私は、その意見に共感することは一切出来なかった。

 

 

一体どこにそんな魅力があるのか、わからなかったからだ。

 

 

だから、依織が彼の告白を受け入れ付き合い始めたときも、どうせすぐに別れるだろうと思っていた。

実際、二人が一緒にいるところに何度か遭遇したことがあったが、最初は依織に夢中だった彼の熱は少しずつ冷めていっているような気がしていた。

 

 

それでも、二人の関係は六年も続いた。

私はその間、何度も依織のことを諦めようと努力したけれど、結局気持ちが冷めてしまうことはなかった。

 

 

私の方が、絶対に依織を幸せに出来るのに。

そんな気持ちばかりが強くなっていって、苦しかった。そしてその間、私は自分と同じように依織に想いを寄せる存在に気付いた。

甲斐悠里。

理学療法士として同じ病院に勤務している、私や依織と同期の男だ。

 

 

誰にでもオープンな性格の甲斐とは、知り合ってすぐに親しくなった。

私にとって甲斐は、何人かいる男友達の中の1人で、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 

 

依織にとっての甲斐は、男友達の中で1番心を許せる親友だった。

 

 

二人の気が合うことは、会話をしている様子を見ているだけでもすぐにわかるほどだった。

 

 

社会人になってからも、私は変わらず依織に想いを寄せ、依織のことだけを見つめていた。

 

 

だから、気付いてしまったのだと思う。

甲斐の依織を見つめる視線が、友達に向けるものとは違うということに。

 

 

出会って二年が過ぎた頃、私はたまたま昼休憩で甲斐と二人きりになったため、核心を突くことにした。

 

 

「ねぇ、甲斐。あんた、依織のこと好きなの?」

 

 

ストレートにそう聞くと、昼食でカレーを食べていた甲斐は、喉を詰まらせたのか急に咳き込みだした。

 

 

「動揺し過ぎ。好きなのか聞いただけなのに」

 

 

「お前、何言って……

 

 

「気持ち、伝えるつもりはないの?」

「いいじゃない。この家、何か落ち着くんだもん。もずくは可愛いし、出てくるご飯は美味しいし。えらそうに文句言わないでよ」

 

 

「いや、その旨い飯は俺が作ってやってんだけどな」

 

 

「甲斐は料理出来るからいいよなぁ。俺なんて包丁すらまともに握れないから、家ではポンコツ扱いだよ」

 

 

甲斐が怒っているにも関わらず、經血過多 マイペースな蘭と青柳を見て、私は笑いをこらえられなかった。

 

 

甲斐と結婚してから、私は毎日が楽しくて仕方ない。

もちろん仕事で何か問題があれば落ち込むことはあるし、どうしようもなく怒りを感じてしまう瞬間だってある。

 

 

でも、帰宅してご飯を作り、同じ家に帰ってくる甲斐の顔を見るだけで、不思議と気持ちが安らいでいくのだ。

 

 

「でもこの家、本当いいよね。新築のマンションで駅近でペット可の物件ってそんなにないんじゃない?しかも依織の実家の近くだし」

 

 

「そうなの。ちょうどタイミングが良かったみたい」

 

 

結婚してすぐ、私と甲斐は互いに住んでいたマンションを解約し、今住んでいるこのマンションに引っ越してきた。

それまで住んでいたどちらの家も、二人暮らしには少し手狭だったからだ。夫婦で同じ病院で働いているため、職場の近くのマンションを探そうと思っていたけれど、甲斐が選んだのは私の実家の近くのマンションだった。

 

 

その内、翼も高校を卒業したら家を出て一人暮らしを始めるようになるかもしれない。

そうなれば、実家に住むのは母と祖父の二人になる。

祖父も今は大きな病気などは患っていないけれど、これからいつ体調を崩すかわからない。

 

 

母の精神的な負担を少しでも減らすためにも、実家の近くに住んだ方がいいのではないか。

甲斐の方から、そう提案してくれたのだ。

 

 

私は、甲斐が自分たちのことだけではなく、ちゃんと私の家族のことも大切にしてくれているのだと実感した。

 

 

実際、職場からは以前住んでいたマンションよりも離れてしまったけれど、その分家族との距離は近くなったような気がしている。

 

 

「私もそろそろマンションの契約更新時期なんだよね。このマンションって、もう他に部屋空いてない?」

 

 

「空いてない。空いてたとしても、全力で反対する」

 

 

「甲斐、冷たくなったよね。依織にもこんな冷たくしてたら、離婚されちゃうよ」

 

 

「大丈夫。俺、依織には甘いから」

 

 

……

 

 

甲斐と蘭の会話を聞いていると気恥ずかしくなり、私は敢えて聞こえていないフリをし、食べる方に集中した。「うわ、のろけてる。まぁ、のろけるのも無理ないか。あんなに好きだった依織と、結婚出来たんだもんね。ほとんど一目惚れのようなもんだったんでしょ?」

 

 

「え、そうなの?俺、その話知らない!」

 

 

「だって最初から甲斐、依織には特別優しかったもんね。私、すぐに気付いたんだから」

 

 

……おかげで俺は、桜崎にからかわれ続けたけどな」

 

 

甲斐が、私が遥希と付き合っていた頃から私を好きでいてくれていたことは知っている。

でも、自分のこととなると恥ずかしくて、あまり詳しくそのときのことを聞いていないのだ。

 

 

どうやら蘭は、私よりもあの頃の甲斐のことをよく知っているようだ。

今度、甲斐と青柳がいないときに、こっそり蘭に教えてもらおう。

 

 

「甲斐は、依織のどこを好きになったの?この際だから、詳しく聞かせてよ」

 

 

「お、いいね!俺も聞きたい!」

 

 

「は?何でお前らの前でそんなこと言わなきゃ……

 

 

「依織も聞きたいって。ね?依織!」

 

 

ビールの他にも焼酎ロックを飲み、既に酔い始めている蘭は、いつもよりも強引だ。

 

 

普段の私なら、話題の中心になりたくないから速攻で話題を変えていたと思う。

でも、私も少し酔っているのだろうか。

 

 

困った顔をする甲斐を、見たくなった。「……うん、私も知りたい」

 

 

甲斐がぎょっとした顔で私を見る。

心の中でごめんと謝りながら、私は蘭に賛同した。

 

 

「ほら、依織も聞きたいって!」

 

 

すると甲斐は、観念したかのようにグラスに半分ほど残っていたビールを一気に飲み干し、口を開いた。

 

 

……もちろん顔は好きだけど、やっぱり中身に惹かれた部分が大きいかな。意外とオタク気質だけどそれを必死に隠そうとするところとか、自分の仕事に誇りを持ってるところとか、むやみに他人の悪口を言わないところとか、知れば知るほど真っ直ぐで良い子だなって」

 

 

「ちょっと待って……

 

 

前にも甲斐は、私のどこが好きなのか話してくれたことがある。

でもあのときは二人きりだったから、躊躇わずに話してくれたのだと思っていた。

 

 

たまらず止めに入ったが、甲斐は私の制止を遮り言葉を続けた。

 

 

「計算高くなくて不器用な所も可愛いと思うし、旨そうにご飯を食べる顔も俺は好き」

 

 

「あ、わかる。依織って、本当に美味しそうに何でも食べるよね」

 

 

「あと俺は、依織の声も好きかな。少し低めの、落ち着いた声。いつ聞いても、心地いい」

 

 

褒めてもらえるのは嬉しいけれど、人前で褒められることには慣れていない。

さすがにこれ以上聞くのは無理だと思い、私はキッチンへ逃げ込んだ。「ちょっと依織、何逃げてんのよ!せっかく甲斐が熱く語ってるんだから、聞いてやりな」

 

 

「や、もういいから。私、何かつまみ作るね」

 

 

酔っ払いのペースに乗ったらダメだ。

死ぬほど恥ずかしい思いをする。

私はアボカドとまぐろのポキを作りながら、さっきの甲斐の言葉を反復していた。

 

 

声が良い、なんて初めて言われた。

今まで、多分誰にも言われたことはない。

自分の声は別に好きではなかったけれど、甲斐にとって心地の良い声なら、今日からは好きになれそうだと思った。

 

 

するとすぐそばから声が聞こえ、顔を上げると甲斐がすぐそばにいることに気付いた。

 

 

「何作ってんの?」

 

 

「ポキ。蘭、これ好きなんだよね。ごま油たっぷりかけちゃえ」

 

 

「うまそ。食べていい?」

 

 

背後から甲斐の手が伸び、和えたばかりのアボカドを口にした。

 

 

「うま!これ、毎日食いたいぐらい好き」

 

 

「ただ和えただけだよ」

 

 

甲斐は私のご飯を美味しそうに食べる顔が好きだと言ってくれたけれど、それは私も同じだ。

こんな幸せそうな顔を見せられたら、どんなリクエストにも応えてあげたい気持ちになる。

そんなに長居するつもりはなかったけれど、翼と祖父がなかなか甲斐を帰そうとしなかったため、帰る頃にはすっかり日が暮れていた。

 

 

「どうせなら、もう夕飯も食べて行けばいいじゃん。皆で外食でもしようよ」

 

 

「昼はパスタだったから、夜は和食がいいんじゃないか?」

 

 

「いや、朱古力瘤手術 私たちもう帰るから。翼もおじいちゃんも、あんまり甲斐にしつこくしないでよ」

 

 

「しつこいって何だ!わしは依織のために……

 

 

「私のためじゃなくて、将棋の相手が欲しかったんでしょ」

 

 

「お前は本当に可愛くない孫だな」

 

 

祖父とは昔からよく口論になり、家族の中では一番ケンカをした相手だ。

特に学生の頃の私は、最大級に生意気なことを祖父に言っていたと思う。

 

 

でも祖父は、そんな私のことをいつも見守ってきてくれた。

なかなか感謝の気持ちを伝えることは恥ずかしくて出来ないけれど、本当はちゃんとわかっている。

 

 

祖父はいつだって、家族の幸せを願ってくれているのだ。

 

 

「そんなこと言って、じいちゃんさっき七瀬のこと褒め殺してたじゃん。料理も出来て家事も出来て、仕事も真面目にやるし優しくて良い子なんだって」

 

 

「甲斐、余計なことを言うんじゃない」

 

 

照れくさそうに甲斐に怒る祖父を見て、私は嬉しくなり笑った。

甲斐がこの場にいなければ、こんなに照れる祖父を見ることは出来なかっただろう。「じゃあ、また来月帰ってくるから」

 

 

「次また甲斐くんも一緒に来てよ!次はゲーム負けないから」

 

 

「言ったな?ちゃんと練習しとけよ」

 

 

「姉ちゃんは、甲斐くんに嫌われないように頑張って」

 

 

「うるさい!」

 

 

帰り際に玄関で話していた中、最後に母が甲斐に向けて発言した。

 

 

「甲斐くん、依織のことよろしくね」

 

 

「大丈夫、わかってるよ」

 

 

母はたった一言だけを、甲斐に伝えた。

甲斐も、一言だけ返し会話は終わった。

 

 

ようやく家を出て、車に乗り込む。

賑やかな空間にいたからか、二人きりの車内の静けさが妙に心地良い。

 

 

「甲斐、ごめんね。疲れたでしょ」

 

 

「全然。やっぱお前の家族っていいよな」

 

 

「え……そう?」

 

 

「賑やかでうるさいけど、落ち着く」

 

 

あんなにしつこくされたはずなのに、そんな風に言えてしまう甲斐を私は本当に尊敬している。

 

 

きっと私ならクタクタになって、落ち着くなんて気遣いの言葉は言えないだろう。

 

 

「翼に言われたよ。姉ちゃんを泣かすようなことはしないでって」

 

 

「え?」

 

 

「翼は本当に七瀬のことが好きだよな。超シスコン」

 

 

それを言うなら、私の方こそ相当なブラコンだと思う。「……甲斐、お母さんとは何を話したの?」

 

 

母と甲斐が二人でどんな話をしたのかがずっと気になっていた。

私を心配するあまり、甲斐に失礼なことを言っていないだろうか。

 

 

「それは内緒」

 

 

「え……教えてよ」

 

 

「だから内緒だって」

 

 

しつこく問い詰めても、甲斐は口を割らない気がした。

でも甲斐の表情は明るいから、嫌なことは言われなかったのだと思うようにしよう。

 

 

「でも本当に大袈裟でごめんね。ただ付き合い始めたってだけなのに、うちの家族舞い上がっちゃって……恥ずかしい」

 

 

「俺はあんなに喜んでくれて嬉しかったけどね」

 

 

……甲斐が好かれ過ぎなんだよ」

 

 

相手が甲斐じゃなければ、うちの家族もあそこまで嬉しさを醸し出すことはなかっただろう。

甲斐には、人に好かれる魅力が沢山ある。

 

 

気さくで人柄も良く、他人の気持ちを思いやる優しさも兼ね備えている。

それに、この人懐っこい笑顔。

甲斐の眩しい笑顔は、無条件で周りの人の心を明るくさせてしまうのだ。

 

 

「七瀬」

 

 

「ん?」

 

 

そのとき、目の前の信号が赤になり、車は緩やかにスピードを落とし止まった。「俺はお前を裏切るようなことはしないから」

 

 

「え……

 

 

「絶対なんて、この世にはないってわかってる。だから、信じられなくてもいいよ。……でも、俺はこの先もお前の傍から離れる気はないから」

 

 

……

 

 

そう言って甲斐は、ハンドルを握っていない方の手で、私の手をぎゅっと握った。

 

 

不意打ちの告白が、胸に深く刺さる。

 

 

遥希にも、付き合い始めた頃に言われたことがある。

 

 

『俺はこの先もずっと、依織のことだけ好きだから』

 

 

『ずっと大切にするよ』

 

 

でも、その言葉は結局嘘になり終わってしまった。

 

 

また信じて傷つくのは怖い。

それなのに、なぜだろう。

甲斐の言葉だけは、信じたいと思えてしまうのだ。

 

 

……うん。離れないでね」

 

 

甲斐にはもう何度泣かされているかわからない。

じわりと熱くなる目頭を指で抑え、涙が溢れるのを堪えた。

 

 

きっと、私の不安が甲斐に伝わっていたのだろう。

いつも甲斐は、私の心を正確に読み取ってくれる。

出会った頃から、そうだった。

 

 

「私も……離れてあげないから」

 

 

出来ることなら、このままずっと私だけを好きでいてほしい。

 

 

隣で運転する甲斐を見つめながら、私は何度も好きだと心の中で呟いた。

 

 

 

 

 

 

友情から恋愛関係へと発展した私と甲斐の恋は、思いのほか順調だ。

付き合っていく内にもっと違和感などが出てくることも覚悟していたけれど、違和感なんて感じさせないほど甲斐の愛は真っ直ぐだった。

 

 

秋は二人で定山渓や支笏湖に紅葉を見に行った。

同じ景色を見て、同じ喜びを感じる。

紅葉をバックに写真を撮り、スマホのアルバムに大切に保存する。

 

 

「何ニヤニヤしてんの?」

 

 

「えっニヤニヤしてた?」

 

 

「自覚ないのかよ」

 

 

甲斐と写っている写真を見ていると、どこにいても勝手に頬が緩んでしまい困る。

 

 

「ねぇ、このとき撮った紅葉綺麗だったよね」

 

 

「圧巻だったよな。来年は今年行けなかった所に見に行こうか」

 

 

「うん!」

 

 

甲斐と付き合い始めてから三ヶ月が経過し、既に季節は冬を迎えていた。

日曜日の昼間から、リビングのソファーで寄り添い録画していた映画を一緒に見る。

 

 

窓の外に視線を移すと、雪がちらほらと降り始めていた。

 

 

「あと一ヶ月で今年が終わるなんて早いよな」

 

 

「うん……そうだね」

 

 

この一年は、本当にいろいろなことがあった年だった。

大人になってから、こんなに悩んだり泣いたり喜んだり、感情の起伏が激しかった一年はなかったと思う。

「あー……もう……何やってんだ、私……

 

 

確かに涙は消え去っていたはずだったのに、どうしてあの場面で泣いてしまったのだろう。

 

 

あの人に渡したくない。

甲斐は私の目を見て、ハッキリとそう言った。

あのとき、キスを受け入れようとする前に、私は自分の気持ちを伝えるべきだったんだ。

 

 

涙を流している場合じゃなかったのに。

 

 

「青柳も……部屋を出てから言ってよ……

 

 

真白さんから連絡がきている。

ただそれだけのことで、こんなにも不安になり、冷凍卵子 こんなにも胸が苦しくなってしまう。

 

 

私は布団の中に潜り込み、深い溜め息をついた。

 

 

その日は結局、気持ちを伝えられなかった後悔に押し潰され、少しも眠れなかった。

 

 

ただ、私を見つめる甲斐の不安げな瞳だけが、ずっと胸の中に残っていた。一泊の温泉旅行を終え、私は甲斐が運転する車で実家まで送ってもらった。

でも、昨夜の話の続きをすることはなかった。

二人きりではなかったからだ。

 

 

「まだ少し熱あるんだから、今日はゆっくりしてろよ」

 

 

「うん、わかった。甲斐も蘭も、いろいろ心配かけてごめんね」

 

 

「まさか風邪でもないのに熱出すとは思わなかったけどねー。疲れが溜まってたんじゃない?本当にゆっくり休んだ方がいいよ」

 

 

甲斐と蘭は、だいぶ遅くまで飲んでいたみたいだけれど、全く二日酔いはしていないのか元気な様子だ。

 

 

「じゃあ甲斐、次は私の家まで送って」

 

 

「桜崎の家遠いから面倒なんだけどな」

 

 

「文句言わずに送って。依織、じゃあねー!」

 

 

私は手を振りながら、立ち去る甲斐の車を見送った。

 

 

昨夜の話の続きは出来なかったけれど、今この場に蘭がいてくれて良かったと思った。

今朝、甲斐の態度が少し私を避けるようなものに変わっていることに気付いてしまったのだ。

 

 

気のせいだと言われれば、そうなのかもしれない。

でも、気のせいだとはどうしても思えなかった。

 

 

「ただいま」

 

 

「お帰り、依織。温泉は楽しかった?」

 

 

実家に帰宅した私を迎えてくれたのは、母だった。「はい、これお土産。皆で食べて」

 

 

「ありがと。こういう定番の温泉まんじゅうが一番嬉しかったりするのよね。今お茶入れるから、食べて行けば?」

 

 

「うん」

 

 

実家に預けられていたもずくは、ゲージの中で私の姿を見つけ嬉しそうに尻尾を振っている。

 

 

私はもずくを抱きかかえ、ダイニングの椅子に座った。

そこからキッチンに立つ母の背中を見つめながら、子供の頃の記憶を思い出していた。

 

 

私が子供の頃、母は仕事を掛け持ちしていたためほとんど家にいることがなかった。

キッチンに立つのは、私の役目だった。

そのせいか、たまの休みに母がキッチンに立つ姿を見ることが私は密かに好きだった。

 

 

母が家にいることが、何より嬉しかったのだ。

 

 

「で、旅行はどうだったの?甲斐くんとか蘭ちゃんたちと一緒に行ったんでしょ?」

 

 

「楽しかったよ。温泉もやっぱり凄く気持ち良かったし。でも、昨日の夜急に熱出しちゃって……結局温泉は一回しか入れなかった」

 

 

「あら、じゃあきっと今、何かに凄く悩んでるのね」

 

 

「え?」

 

 

母はお茶を私に差し出し、私の目の前の椅子に座った。

 

 

「依織は昔から、何か悩み事があるとすぐ熱出してたのよ。すぐお腹もこわすしね」

 

 

子供の頃から何も変わっていないことに恥ずかしさを感じながらも、急に熱を出してしまった原因が自身の悩み事に直結しているのだと知り納得した。「何にそんなに悩んでるの?あ、もしかして恋の悩み?」

 

 

母は気持ちが若いのか、平気で娘と恋の話をしようとする。

私は今まで、自分から母に恋の相談をしたことはない。

でもいつも母からしつこく問い詰められ、どんな恋をしているのかを自白させられてきた。

 

 

当然今回も、家族に恋の相談なんてするつもりはなかった。

 

 

「別に恋の悩みじゃないし……

 

 

「わかった。依織、甲斐くんのこと好きになっちゃったんでしょ」

 

 

「な……!」

 

 

私はわかりやすく動揺してしまい、お茶をこぼしそうになった。

慌てる私の膝の上に座っているもずくが、心配そうに私を見上げる。

 

 

「どうして……

 

 

「女の直感よ」

 

 

女の直感というものは、本当に侮れないといつも思う。

敏感ではない私でさえ、何度も自分の直感を信じてきたことがある。

 

 

「甲斐くん、いい男よね。会話も上手だし、イケメンだし、爽やかだし、優しいし。友達にしておくには勿体ないって、前から思ってたのよ」

 

 

母は甲斐のことを、以前からかなり気に入っている。

長年私が同棲していた遥希のことは、そこまでベタ褒めするようなことはなかった。

 

 

「で、甲斐くんの気持ちは?どうなの?」「甲斐は……

 

 

久我さんに渡したくないと言ってくれた。

あの発言の真意が、私の望んでいるものと一致していると思いたい。

 

 

それでも私は、甲斐が私を好きだという確信が持てずにいた。

それはきっと、真白さんの存在がずっとちらついているからだ。

 

 

……わからない。私も、甲斐のことを好きだってちゃんと自覚したのは、昨日とかだから……

 

 

「そんな悠長なこと言ってたら、うまくいくものもいかなくなるわよ。好きなら好きって、早く言っちゃいなさい」

 

 

……

 

 

それが出来ないから悩んでいるのに、母はいつでも自分の気持ちに正直に生きている人だから、私が好きだと言えずにいることが焦れったくて仕方ないのだろう。

 

 

「依織。人の気持ちは変わるものなのよ。驚くぐらい、速いスピードでね」

 

 

「え……

 

 

「後悔してからじゃ、遅いことだってあるでしょ?だから、恋はスピードが勝負の鍵を握ってるの。ウジウジしてないで、ぶつかりなさい」

 

 

母の言葉には、妙な説得力がある。

母は自分の経験から、私にアドバイスをしてくれているのだろう。

 

 

母は、父と別れたことを本当は後悔しているのだろうか。

一瞬浮かんだ想いを、母に投げかけることは出来なかった。

「何かさ、この家も手狭になってきたよな」

 

 

「そうだよね……1LDKだしね」

 

 

今一緒に暮らしているこの家は、もともと私が社会人になった頃に一人暮らしをスタートさせた家のため、最初から同棲目的で借りているわけではない。

 

 

一人暮らしを始めて二年が過ぎた頃、遥希が自分の荷物を持ってこの家に引っ越してきたのだ。

 

 

部屋の間取りは1LDKだけれど、期指 リビングや寝室は通常の1LDKよりは広めに作られているため、どうにか二人で暮らせている。

 

 

それでも遥希が言うように、手狭になってきているのは確かだ。

長く住んでいると、どうしても荷物が増えてきてしまう。

 

 

それに愛犬のもずくも基本は部屋の中で放し飼いにしているため、この家の中をいつも走り回っている。

二人+一匹の生活では、狭いと感じるのも無理はないのかもしれない。

 

 

「どうする?いっそのこと、もう少し広い家に引っ越す?」

 

 

「引っ越しかぁ……

 

 

「ていうか、俺らそろそろ結婚しない?」

 

 

……

 

 

引っ越しとか面倒くさいな……と思っていたときに、突然のプロポーズ。

私は、何も言葉を返せなかった。「もう一緒に暮らしてるんだし、結婚してるようなもんじゃん。それなら籍入れちゃった方が、いろいろ都合いいだろ」

 

 

「確かにそうかもしれないけど……

 

 

私が浮かない表情をしていることに気付いた遥希の口調が、棘のあるものに変わった。

 

 

「何をそんな迷う必要があんの?俺が旦那じゃ不満?」

 

 

「別に不満とかじゃなくて……

 

 

「俺は、依織と夫婦になりたいと思ってるよ。依織じゃなきゃダメだと思ってる」

 

 

……

 

 

遥希の結婚願望が強いことは、以前から気付いていた。

結婚したら一軒家を建てて、子供は最低でも二人は欲しい。

そんな夢を、何年か前に話してくれたことがある。

 

 

でも、私は違う。

 

 

遥希が抱いているような夢を、私は一度も願ったことがない。

 

 

「私も……遥希じゃなきゃダメだって思ってるよ。……でも、今すぐ結婚とかは、まだ考えられない」

 

 

私だって、遥希のように純粋に結婚に夢を抱けるようになりたい。

遥希と付き合っていく内に、そんな自分になれることをずっと期待していた。

 

 

でも、付き合って六年が経とうとする中で、そんな自分に出会えることはなかった。「依織って、ちょっと変わってるよな」

 

 

「え……

 

 

「好きなら結婚したいと思うのが普通なんじゃないの?……それとも、俺がおかしいのかな」

 

 

「違うよ……遥希はおかしいこと言ってない」

 

 

もう少しで三十代に突入するというのに、同棲している恋人がいながらも未だに結婚願望を抱くことが出来ない私がおかしいのだと思う。

 

 

そのせいで、今遥希が私に対して失望していることもちゃんとわかっている。

それでも、自分の結婚観を変えるのは、そう簡単なことではないのだ。

 

 

……ごめんね」

 

 

遥希を悲しませたくないのに、それしか言えない自分がもどかしくて情けない。

 

 

「別にいいよ。でも今すぐじゃなくていいから、少しは考えておいて」

 

 

「うん……

 

 

「じゃあ俺、先に寝るわ。おやすみ」

 

 

「おやすみなさい……

 

 

リビングに一人残された私は、深い溜め息をつき宙を見上げた。

 

 

好きだから一緒にいる。

それだけではダメなのだろうか。

 

 

恋も仕事も家事も、全部うまくやっていきたい。

それは、欲張りなのだろうか。

 

 

遥希といつから身体を重ねていないだろう。

目を瞑り、何日前にSEXしたかを思い出してみる。

 

 

大丈夫、記憶の糸を辿ればまだどうにか思い出せる。

 

 

……私たちは、まだ大丈夫だ。四月。

札幌はまだ少し肌寒い日が続いていて出勤時のトレンチコートは必須だけれど、深く息を吸い込むと春の匂いがするようになってきた。

 

 

私は、春が一番好きだ。

夏は暑がりの私には辛い季節。

秋になるとすぐに冬がくるような気がしてブルーになる。

冬は雪が酷いと仕事に行くのが億劫になる。

 

 

その点、春に対して嫌なイメージは一つもない。

 

 

「おはようございます」

 

 

「七瀬さんおはよ!今日すごい地下鉄混んでてヤバくなかった?押し潰されて呼吸出来なくなるかと思った」

 

 

「そんなに混んでたんですか。私、ここまで徒歩で来てるので共感出来なくてすみません」

 

 

「徒歩で出勤とか羨ましいわ。私もこの近くに引っ越してこようかしら」

 

 

職場に着くと、いつも眼科の看護師さんとの雑談から一日が始まる。

私が配属されている眼科は、医師は男性だけれど後は全員女性だ。

 

 

最初、女性ばかりの所で働くことに不安ばかり抱いていたけれど、幸い意地悪な先輩はいなかったため、すぐに馴染むことが出来た。

転勤がない職場で良かったと、心から感じている。

 

 

「そういえば七瀬さん、明日って院外研修の日だっけ?」「そうなんです。何度も参加してるんですけど、その度に自分はまだまだだって思い知らされるんですよね」

 

 

「医療は次々と覚えなきゃいけないことが増えていくからね」

 

 

「しっかり学んできます」

 

 

雑談の後は、スタッフ全員が揃ったところで朝礼が始まる。

午前九時から外来の診察が始まるため、九時になると一気に患者さんが来院する。

そこから昼の休憩までは、ほぼ休む暇はない。

 

 

特にこの病院は眼科の医師の評判がよく最新の機器を使った治療が受けれるため、道内の各地方から患者さんが訪れる。

 

 

目の病気は、数多く存在する。

この仕事に就いてから、目で人やものを見られることが、当たり前ではなくすごく幸せなことなのだと気付くことが出来た。

 

 

私がこの仕事を目指すキッカケをくれた祖母は既に亡くなってしまったけれど、今私がこの仕事に就いていることをきっと喜んでくれていると思う。

 

 

「七瀬さんにリハビリしてもらうようになってから、前よりだいぶ視野が広がって感謝してるのよ。いつもありがとうね」

 

 

「いえ、山下さんが努力した結果ですよ。これからも頑張りましょうね」

 

 

患者さんから、ありがとうと言われる。

暗かった患者さんの表情が明るくなり、笑顔を見せてくれるようになる。

この瞬間のために、私はこの仕事をしているのかもしれない。

↑このページのトップヘ