2021年07月

 翌日。

 

 買い物に出たお義姉さんが足のリハビリにと買って来たのは、マッサージも出来るイボ付きの足踏み竹。

 

 右足は確かに動かないが、幼兒 playgroup 原因は足の付け根の神経であって、足首や足の裏や指なんかは感覚がある。

 

 だから、当然――。

 

「いたたたたっ!」

 

「え? そんなに!?」

 

 拒む俺を無視して、お義姉さんは右足を持ち上げて竹の上にのせた。自力では足を持ち上げられないということは、力加減も出来ないわけで、足つぼが刺激されて痛いのに逃げられないということ。

 

 何とか足を下ろそうと力を込めれば、余計にイボが足裏に食い込んだ。

 

「ストップ! 無理! マジで無理!!」

 

 あまりの痛さに身体を仰け反らせると、その弾みで足が竹を蹴飛ばした。

 

「すみません! そんなに痛いとは思わなくて――」

 

 お義姉さんは予想以上に悶絶する俺を見てオロオロしている。

 

「――大丈夫ですか!?」

 

 俺は左肘で身体を支え、ソファに対し斜めになっていた。

 

 うちのソファは柔らかい。年季が入っているから尚更で、昔はふかふかしていて座り心地が良かったが、不自由な体では沈み込み過ぎると起き上がれない。

 

「失礼しますね」

 

 そう言うと、お義姉さんは正面から俺に抱き着くように身体を密着させ、細い腕で腰に手を回した。

 

 こうして身体を寄せるのは、昨日に続いて二度目で、昨日同様に石鹸の香りがした。 グッと腰を持ち上げられ、ソファに直角に座りなおせた。

 

「すいません」

 

「いえ。私こそすみません。足の感覚がないようなら、いい刺激になるかと思ったのですが……」

 

 お義姉さんはソファの下に正座して、しゅんと肩を落とした。

 

「どんなリハビリが必要か確認もしないで、すみません」

 

「俺もちゃんと言わなかったんで。気にしないでください」

 

 今日のお義姉さんは、紺のシャツにジーンズ。シャツは丈が長めで、尻まで隠れている。ジーンズはインディゴのストレート。それから、髪はやっぱり後ろできつく結んでいる。

 

 巷で流行っている襟が大きく開いたシャツではないから、昨日同様にボタンは一番上以外はきちんと留められている。

 

 

 

 いや、だからどうしたって話なんだけど……。

 

 

 

 萌花の露出の多い服装を見慣れていたせいか、ここまで露出がないとかえってそそられるようだ。

 

 

 

 つーか、仮にも義姉に対して、なんつーことを考えてんだ……。

 

 

 

 やはり、二か月間の入院生活と禁欲生活で、調子がくるっているらしい。

 

「あの、出来れば、身体の状態を教えてもらえませんか? 専門家ではないですが、少しは介護の経験があるので、お役に立てるかもしれませんし」

 

「いえ。俺の方こそ、手伝いを頼むのにちゃんと説明していなくてすみませんでした。コーヒーを淹れてもらっていいですか。ダイニングで話しましょう」

 俺はソファの脇に立て掛けてある杖を右手で掴み、床に真っ直ぐに立てた。

 

 右手首と左足に力を入れて、腰を浮かせる。と、またも石鹸の香りを間近で感じた。

 

 お義姉さんは俺の、杖を持つ右手に手を添え、右脇を下から支えるように身体を密着させた。

 

「あ……の」

 

「無理をすると右手首を痛めそうな気がします」

 

 確かに、今朝起きたら右手首が痛かった。

 

 杖での移動にろくに慣れていない状態で、無理をしたかもしれない。

 

「ありがとうございます」

 

 結局、杖を突くことなく、俺は彼女に脇を抱えられたままダイニングテーブルまで移動した。

 

 俺を椅子に座らせ、彼女は台所でコーヒーを淹れ、戻って来た。

 

「ブラックでいいですか?」

 

「はい。ありがとうございます」

 

 俺は指が曲げられる左手でカップを持ち、手首が曲がる右手で底を押さえた。

 

 大きくふぅっと湯気を吹くと、一口飲む。

 

「萌花からは、どう聞きました?」

 

「事故で手足に麻痺があって、リハビリ次第では動くようになるかもしれない、と」

 

 なんてざっくりな説明だ。

 

 俺はゆっくりとカップを置き、テーブルの上両手を広げて見せた。

 

「左手の指は動かせます」と言って、左手を握ったり開いたりして見せる。

 

「けど、手首は動かせません」

 

 手首に力を入れるが、血管が青く浮き上がるだけ。

 

 お義姉さんはじっと俺の手を見つめている。

 漫画みたいに格好よくキスをして、格好よく気持ちを伝えようと思ったのに、初キスは勢い余って頬になった。それでも、当てが外れたことを悟られないように必死で冷静を装い、思いの丈を口にした。

 

『好きだよ』

 

 恥ずかしくて足の指の間がムズムズする、甘酸っぱい青春の思い出。

 

 

 

 あの子、どうしてるんだろう……。

 

 

 

 一か月ほどして、playgroup課程 ようやく唇を重ねた直後、彼女は誰にも何も言わずに突然転校してしまった。

 

 たった一か月の間に、何度彼女の手を握っただろう。

 

 手の上でシャープを回す俺の指をじっと見つめて、自分は指が短いとはにかんでいた彼女。

 

 

 

 あの後、シャープ回せるようになったのかな。

 

 

 

 俺は回せなくなってしまった。

 

 今の俺を見たら、彼女はなんて思うだろう。

 

 何も言わずにいなくなってしまった彼女に思いを馳せた。

 

 

 

 髪……解けなかったな。

 

 

 

 いつか、きつく結んだ髪を解きたいと思っていた。

 

 もちろん、下心ありありで。

 

 

 

 彼女はわかってなさそうだったよな。

 フッと笑った拍子に力が抜け、手からボールが転がり落ちた。

 

 ただ、ボールを持っていることが、今の俺には難しい。

 

 

 

 今、目の前に彼女がいても、この手じゃ髪を解けないな……。

 

 

 

 怪我をしてから、初めて思った。

 

 悔しい――!

 

 事故の後、意識のないまま手術を受け、二日ほどして目が覚めた。その後一か月半ほどでギプスが取れて、後遺症が残ったことが分かった。再三の検査で、リハビリ次第ではある程度までは回復すると診断された。そして、先の見えないリハビリを放棄し、俺は退院した。 この二か月、現実を悲観して泣いたり喚いたり暴れたりすることはなかった。落ち込んで鬱になることも。

 

 なぜか、とても冷静に現実を受け入れた。

 

 なのに、今になって、悔しさや情けなさ、もどかしさなんかの感情がどっと押し寄せてきた。

 どうして俺が、こんな目に――!

 

 足元のボールを睨みつけ、俺は左足でそれを踏みつけた。

 

 

 

 こんなもの――っ!

 力いっぱい踏みつけて、足首を捻ってグリグリと踏み回し、それでも足りなくて、足を上げるとダンッと思いっきり足を叩きつけた。

 

「どうしました?」

 

 お義姉さんの耳にも届いたようで、何事かと駆け寄ってくる。そして、すぐに気が付いた。

 

 ボールを握っているはずの右手は空で、左足の土踏まずから黄色い半円の物体が覗いている。

 

 手のリハビリ用にと折角買って来たのに踏みつけられたのでは、気分を悪くしたろう。

 

 左足を上げると、ぺちゃんこになったボールが酸素を取り込み、ゆっくりと身体を膨らませる。

 

 お義姉さんは俺の足元に跪き、ボールを拾い上げると、だらしなく広げている右手にのせた。再び、指を曲げて握らせる。

 

「明日は、足のリハビリ用にも何か買って来ますね」

 

 肘までシャツをまくっていた彼女の手は、冷たかった。

 

「シャープペン、指で回せますか?」

 

「え?」

「回せたんですよ、昔は。最近は……してなかったからわからないけど」

 

「すごいですね。私は回せないんです。どうしても、指の動きがわからなくて。それに……指も短くて……」と言いながら、彼女は自分の手を組んだ。

 

「指が短いんじゃなくて、手が小さいんですよ」

 

 俺は彼女の手を見つめながら、言った。

 

 彼女もまた、自身の手を見つめる。それから、俺を見た。

 

「また回せるようになったら、教えてください」

 

 そう言うと、台所に戻って行った。

 お義姉さんの前でシャープを回したら、きっとずっと見てるんだろうな。

 ふと、シャープを回す俺の指を真剣な顔で見つめていた彼女を思い出した。

 早坂……。

 

 俺は右手の人差し指に力を込めた。

 

 動かないこの指にも、まだ価値があるだろうか。

 

 次に中指。それから、親指。力を入れているつもりなのに、なかなか曲がってくれない。

 

 頑張れば、いつか彼女に再会できた時、髪を解けるだろうか。

 

 気が弱っている今だから、美しい記憶の中の彼女を思い出す。ただそれだけかもしれない。

 

 実際に彼女に会えても、もう髪は結んでいないかもしれない。シャープを回して見せても、くだらないと笑われるかもしれない。

 

 それでも、今だけ、彼女を頑張る理由にしたかった。

牙蔵はそれだけ言うと目を逸らし、フラッと離れて行く。

 

「…銀に乗るか?」

 

信継に優しく微笑まれ、詩はニコッと笑った。

 

「はい…!」

 

信継はその眩しい笑顔に思わず真っ赤になる。

 

詩は那須に頭を下げて、銀に触れた。

 

「銀…

 

また会えて良かった…

 

多賀で…きれいに手入れし指數 期貨てもらってたんだね」

 

銀の毛並みは美しかった。

 

銀はブルル…と鼻を鳴らし、甘えるように詩に頭を下げた。

 

詩は多賀でのたった1日のことをまた思い出す。

 

加代さん。弥七さん。お元気かな…

今日は…芳輝様と…甚之輔様と…八さんにも会えて…驚いたけど…。

 

銀を大切にしてくれた。

多賀は本当に…穏やかでいいところだな…。

 

詩の心は感謝に溢れていた。

 

「…袴じゃなくて大丈夫か?」

 

いつの間にかすぐそばに立っていた信継が、詩に優しく聞く。

 

詩は少し赤くなりながら信継を見上げた。

 

「…大丈夫です」

 

銀がブルルっと鼻を鳴らし、信継にすり寄る。

 

「…はは…銀が」

 

詩は信継に微笑んだ。

 

「…信継様に懐きましたね」

 

信継がカッと目元を染める。

それから、それは嬉しそうに微笑んだ。

 

「…詩の匂いがするのかな」

 

「…っ」

 

今度は詩が真っ赤になる番だった。信継と詩は、それぞれ真白と銀に乗って、宇都山の先、の群生している山へ向かう。

 

「…詩!蠟梅の咲いている辺りは獣道で、崖も多く危険だ。

雪も積もっている。

 

そこからは1列で行こう。俺の後に続け」

 

「はい!」

 

並み足で並走しながら、2人は宇都山をさらに上って行く。

 

既に遠く離れた2人を見ながら、牙蔵が那須に言った。

 

「…沖田は」

 

「10人。

 

龍虎も動いています」

 

「あいつは救いようのない阿呆だな…。

 

他は」

 

「…近隣諸国の者が数名。

次期高島家当主を一目見ようとの

偵察目的のようで殺気はありません」

 

「…」

 

「実はその中に1人、正体が掴めない者がいます。

 

わずかな気配はあるのですが、姿を見ることには未だ成功していません。

 

どこの誰かは、まだわかっておりません」

 

「忍?」

 

「はい。”くノ一”です」

 

「…」

 

「これも殺気はなく、此度の噂を聞いての偵察かと思われますが」

 

「…わかった」

 

那須が掴めないーーそれは相当な手練れを意味していた。

 

くノ一

ーー…もしかしなくても…アレなのか…。

 

牙蔵は豆粒のように小さくなっていく信継と詩に目をやった。

 

「出る。

 

信継と女を守れ」

 

「…はっ」

 

それから2人は、阿吽の呼吸でそれぞれ音もなく散った。

 

 

 

 

「詩、大丈夫か」

 

「はい」

 

段々険しくなっていく上り坂。

 

1人ずつしか通れない細道に差し掛かりーー信継は何度か詩を振り返り、声を掛ける。

 

「あと半刻はこのまま進む。いいか」

 

「はい」

 

詩は楽しそうにニコニコしていた。

 

 

 

 

「…来ました」

 

「…来たな。

 

おお。やはり…あの娘だ…」

 

龍虎はニヤリと笑うと、山頂近くの高台から2人を見下ろす。

 

「育次…ヤツは来ているか?

 

叉羽という偽名を使っていたアレだ…

 

高島の忍の」

 

育次は目を伏せ、それから龍虎を見つめる。

 

「恐れながら…某にはわかりません」

 

龍虎はカッと目を開いて育次を睨んだ。

 

「育次…お前、嫌に庇うな…

 

高島に何かあるのか…」

 

育次は目を伏せて首を振る。

 

「何もございません。

 

某の能力が低いためです」

 

「ふん…!」

 

龍虎は面白くなさそうに育次をもう見なかった。

 

「2人を引き離せ!

 

高島信継は崖から落とせ…!

 

あの立派な馬は2頭とも沖田に頂こう。

 

もちろん、一番欲しいのは…あの女だ」

 

「はっ…」

「承知しました…!」

 

龍虎の息のかかった元浪人たちが、山頂から信継と詩へと駆けていく。

 

「…ははは…」

 

龍虎は勝利を確信し、天を仰いで高笑いをした。

『ああ。だから面倒だろうが今日は会ってやって』

 

『わかった』

 

『今日も気を抜かないこと。沖田にも動きがあるよ』

 

『わかった。懲りない暇人だな…年明けに改めて釘を刺す』

 

聞き覚えのある声に、詩の意識は浮上する。

 

褥の中ーー詩は1人で横になっ恒指 期貨 ている。

隣の部屋への襖は少し開いていてーー信継と牙蔵が話をしていた。

 

ーー牙蔵さん…

 

詩の胸がずきりと痛んだ。

 

昨日のことーー

そして夢ーー

 

詩は今の姿を見られたくなかった。

咄嗟にそう思った。

 

信継と一つの褥で休んだ。

覚悟して、信継のものになると言った。

 

なのにーーなぜか、牙蔵にはこの姿を見られたくないと思った。

 

「お前の女…起きたんじゃない?」

 

「こら牙蔵…そういう言い方をするな」

 

「…」

 

ーー『お前の女』

 

気のなさそうな牙蔵の声とーーくすぐったそうな信継の声。

 

衣擦れの音ーー信継と牙蔵が向かってくる。

 

詩は慌てて褥から出て、簡単に身づくろいすると正座した。「起きたか!…う…

いや、桜」

 

大股で歩いてくると、笑顔の信継はドカッと詩の前に座った。

 

『詩』でなく『桜』とーー

牙蔵の手前、真名を伏せてくれた信継の優しさーー詩は畳に手をついて信継に深く頭を下げた。

 

「おはようございます、信継様。

寝過ごしてしまい、申し訳ありません」

 

「いや。大丈夫だ………」

 

からりと笑う信継は、蕩けそうな優しい笑顔でじいっと詩を見つめた。

その場の空気が、甘くなった。

親密になった男女の空気だ。

信継のそんな顔を見ただけで詩はボッと赤くなる。

 

何度も触れた、信継の唇ーー夕べの記憶ーー

 

どうしても思い出す感触と温もり…

詩は赤くなる顔を隠すように目を伏せた。

 

「ああ、桜。

牙蔵が来てるんだ」

 

信継は背後の牙蔵を見上げた。

 

「…っ」

 

詩はとても牙蔵と目を合わせられず、また深く頭を下げた。

 

牙蔵の視線が突き刺さるようだった。

そんなはずもないのにーー

 

『…すみません、信継様、少しよろしいでしょうか…』

 

「ああ、行こう」

 

その時、廊下から声がした。宿の方から呼ばれて、信継がさっと席を外す。

 

「…」

 

「…」

 

火鉢の中の炭が、静かに崩れた。

 

牙蔵は立ったまま。

 

詩もまた顔を上げられずにいた。

 

「…お前も晴れて寵姫だね」

 

「…っ」

 

「次期高島家当主の奥方か」

 

ぼそりと呟かれた穏やかな言葉ーー

詩は弾かれたように思わず牙蔵を見上げる。

 

「…」

 

目が、合う。

 

牙蔵は何でもなさそうにーー感情の読めない微笑みをその顔に湛えている。

 

「…これからは立場に自覚を持て」

 

「…」

 

「それと一つだけーー」

 

詩は牙蔵を見上げた。

 

牙蔵はスッと詩の前にしゃがみ込むと、詩の耳に口を寄せた。

 

「…………………」

 

「…っ」

 

牙蔵はあっという間にいなくなる。

 

詩は固まったみたいに動けないまま、その目を見開いていた。

 

 

 

『連絡ありがとう』

 

廊下側の襖が開いてーー信継が戻ってくる。

 

信継はきょろきょろと部屋を見渡して、牙蔵がいないことに気づいた。

 

「あ?牙蔵は…もう行ったのか。

 

桜ーーいや、詩」

 

話しながら詩のいる部屋に入って来た信継は、詩の顔を見て怪訝な顔をした。

 

「詩?何で泣きそうな顔してる…?」

 

信継はさっと詩の前に座ると、詩のカラダをさっと抱き寄せた。

 

心配そうな信継の顔。

大きな腕に引き寄せられ、その胸のぬくもりにぎゅうっと包まれると、詩は震えそうになる指で信継の着物をギュッと握り返した。

 

「…詩?

 

…もしかして…牙蔵に何か言われたか?」

 

詩は信継の腕の中ーーブンブンと首を振る。

 

”一つだけーー”

 

耳元で囁かれーーそのまま脳の中に入り込んだような、牙蔵の言葉が詩の頭をぐるぐるまわる。

 

”信継を裏切ったら…殺すよ”

 

”俺が、お前をーー”

 

”いつでも、どこにいても”

 

あの、冷たい瞳。

青白い微笑み。

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