2019年04月

 大人のほとんどが避けていく。怖れていたと言った方がしっくりくるのかもしれない。 それを感じたのは、幼稚園でお遊戯会の練習をしたときだ。全員の台詞と動きを、先生の見本を一度見ただけで覚えた。運動治療 香港「違うよ、かいとくんはここで前に出るんだよ」「あ、違う違う。ななこちゃんはここまで出てきてから、おいしーって両手を広げるんだよ」 滝音鏡水(たきおときょうすい)がそう指導していると、先生は困ったように言った。「きょうすいくんは自分のことをしようね。教えるのは先生たちがやるんだから」 先生たちの眼は怯えていた。今でも、いや、鏡水は一生その目を忘れることがない。 ぼくはほかのこどもとちがうんだ。 ぼくはみんなとちがってこわがられるんだ。 それでも中学に上がる頃には、怖がられるなんてことはなく、頭脳明晰な生徒として教師から褒められることが多くなった。 自分が悪いわけではなかった。そう胸を撫で下ろした。 一方で、溜まっていた鬱憤からか、この頃から記憶できないというクラスメイトを馬鹿だと見下し始めた。 まだまだ脳は有り余っているじゃないか。鏡水はいつも不思議でしょうがなかった。 

それはある意味蹂躙。頭の芯が痺れるような酩酊感。世界がたった1つの「聲」に塗り潰され、支配される。この歌声だけが、この世の総て――――…そんな、絶対的な陶酔が、胸を過った。護膚步驟俺の世界でもたまに遊びにいく「他」でも、此れ程の歌は聞いたことがない。1人だけ出来そうな音楽家の知り合いはいなくもないが、そいつの「本気」は残念ながら聞いたことがなかった。これは凄い。素直に、そう思う。神など信じてもいない俺が、奇跡を目撃したような感動を覚える。称賛以外の言葉が、まったく浮かんでこなかった。1曲目は、それほど長い歌ではなかった。心地よい余韻を残して歌声が途切れれば、惚けたような一瞬の間の後、割れんばかりの拍手が会場内を埋め尽くした。皆、言葉もない。称賛の言葉は幾らでも浮かぶのに、どの言葉でもこの歌声には足りなかった。壇上の少女は軽やかに腰を折る。狂ったような拍手の渦は鳴り止みそうにもなかったが、少女を照らすスポットライトの光が消え背後に勢揃いしていた楽団が音を奏で始めると、徐々に拍手の音は止んだ。照明は見当たらないので魔法だろうが、光を切り替えるタイミングや光量などの調節も見事なものだ。楽団の演奏も、それは見事なものだった。俺の見たことのない楽器が多かったが、音色としては見知った物に近いように思う。音の奔流が一体となって調和を生み、美しい音楽を紡ぎ出す。その心地いい音色に逆らう意味があるわけでもないので、素直に身を任せる。ゆったりとした交響曲から軽快な回旋曲に変わった辺りで、再びスポットライトが舞台を灯す。今回明かりに照らされ舞台に姿を表したのは、男女の双子だった。その2人が「男女の」双子だと正しく認識出来たのが果たして何人だったかは、不明だが。光に照らされた2人は、流れるように踊りだす。動くたびにそれぞれのスカートの裾が揺れ広がり、手首に付けられた高低の差がある鈴の音が音楽に交ざりあった。しゃらしゃらと、片や涼やかに、片や楽しげに音が散る。観客席のあちらこちらから、感嘆の息が漏れた。近くで共に踊っていたかと思えば、次の旋律では離れて動く。同じ振りをしていると思う端から、違う振りが混ぜられる。飽くことのない舞踊に、最後には高さすら使われた。

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